思索記

ものを考える。詩。

鬱について

*鬱は心の風邪なんて言わせない。

複数の異なる具体が共通に帰結する場合、私たちはその現象に名前をつけて扱う。「鬱」もそのひとつである。夫が交通事故で死に、鬱になる。学校でいじめに遭って、鬱になる。抱えきれない仕事に追われて、鬱になる。直属の上司にパワハラを受けて、鬱になる。何社受けても就職できず、鬱になる。同様に「風邪」も複数の具体が共通に帰結するものの名前である。雨に振られてしまい、風邪をひいた。仕事の疲れで風邪をひいた。栄養不足で風邪をひいた。寝不足で風邪をひいた。そして「鬱」にも「風邪」にも程度があって、すぐに治るものから、治療に時間のかかるもの、死に至るものまである。これらの点で「鬱」と「風邪」は共通している。しかし、世間一般に浸透している「風邪」と私たちが扱うべき「鬱」を一緒くたにされては困る。風邪の中でも、罹患したものの多くが重症化し、死に近づくそれを私たちは風邪と呼ばない。インフルエンザA型、B型、サーズ、コロナ、アルファ、ベータ、ガンマ、、と詳細に分類する。しかも、国を挙げてワクチンだ、医療体制をどうだ、と躍起になる。程度の低い鬱は「落ち込む」で済ましているんだから、言うなれば「落ち込みは心の風邪」である。「鬱」のワクチンと医療体制も作っておくれよ。もっと大胆に。

 

*私の鬱「私鬱」

前項に則って、重症化する風邪を細分化して命名するように、私も自身の抱える鬱に名前をつけたい。風邪と同様に、程度の差はあれど、皆鬱を潜在的に抱えている。私の持っている鬱を、ここで私鬱と呼んで扱う。あなたの鬱でも、彼の彼女の鬱でもない。

これまでの私鬱の病症は、過度な不安、怒りや、食欲減衰、希死念慮、自殺企図など「鬱」によくあるものや、具体でいうと、頭が真っ白になり挙動がゆっくりになる、言葉がでてこない、外に出られない、風呂に入れない、外を歩くと全てのものや人が私を馬鹿にしているように感じる、すべての音がうるさい、眠れない、文字が読めない、何をしても何も感じない、何もしたくない、意味もなく泣く、心臓の辺りがチクチクと痛む(これが治らない、何をしていても痛みが気になっていな集中できない)、などがあった。

小さい頃から癇癪持ちであったことと無関係だとは思っていない。教室に1人はいる、「キレたら暴れてめんどくさくて気持ち悪い」と思われる人の1人だった。今現在に至るまで、程度に差はあれど、この私鬱の波に苦しんでいる。これを書いている今も、眠れなくて、「死にたい」でいっぱいになりそうだな、このままじゃ、あーまたかー、と思いながら迎えた朝である。

 

*専門家がみた私鬱

4年ほど前に、もう死ぬしかないと思って、ベルトを輪っかにして二段ベットの端っこにくくり(そこが部屋で1番高いところだった。台を蹴飛ばせば足が地につかないような場所が、家の中にあったら、死んでいたかもしれない。外に出て、死ねる場所を探すのは簡単じゃない。誰かに誘われていたら、できたかもしれない。今思えば、そもそも死ぬ気がないんだと思う。パフォーマンス。ナルシズム。その時その瞬間は本当に死にたい、死ぬんだ、と思い込んでいた。そうすることでしか、自分を保てなかったんだと思う。)、首を通して体重をかけて死のうとして、怖くて死ねずに(死んだら迷惑をかける人の顔がたくさん浮かんだ。俺の死んだ後、事故物件となるその賃貸に訴えられたら払うお金や、清掃にかかるお金を払う自分の貯蓄がないこと、どうせ死ぬのにそんなことを気にしている自分、俺の死を聞いた当時の彼女、親の顔、色んなことが頭によぎっては、死ぬことすらできない軟弱な自分への激しい自己嫌悪を抱え、とにかく死ぬんだ、と首に体重をかけ、視界の周りがギラギラと白くなり、息ができない苦しさに耐えられず、首を上げたりした。)泣いた後、心療内科に行った。骨折と違い、鬱はレントゲンで写せない。先生には、君は病気ではないと言われた。一応、と薬を貰いながら、2年ほど通院した。その後は、もらった薬が効いたのか、病気じゃないと言われてそれを信じたのか、波はあっても死にはせずに暮らした。その後、引っ越したので暫くは病院へ行くこともなく暮らした。が、また死にたくなるのを繰り返し、また死のうとする自分をみとめて、引っ越した先の病院へ行った。そこでは、「病的な何かがあるのかもしれない」とだけ言われるに留まった(そこで貰った薬はドンピシャに効いた。レクサブロという薬だった。飲み始めてから2週間ほどして、世界の見え方が如実に変わっていくのを感じた。外を歩いている。平気で外を歩いている。その事実に涙するほど震えて感動した。色が違う。音が違う。心が違う。息を吹き返したような感覚。)。私は、私の抱えるこれは、専門家に病気だと断定され、治療されるには及ばない程度のものだと解釈した。専門家の先生の仰る通り、世間一般で言うところの普通の人と変わらずに、友達もいるし、恋人もできるし、仕事もできるのだから、私は治療しなきゃいけない存在じゃない。少し目が悪い程度のことなのだろう。知人のなかでそれぞれの「鬱」を抱えていて、病院で病名をつけられ病気と闘っている人や、自身が通院していて目の当たりにした他の患者の様子などを思うと、確かに、私は取り分けて深刻な「病気」ではないんだろうと思う。


*私鬱は世界の映し方

どうやら、私の抱えているこれは、鬱じゃないらしい。社会生活に大きな支障をきたさない「なんらかの病的なもの」であれば、鬱に限らず全員なにかしら抱えている。世間一般の基準に照らしても、今現在のわたしからしても、大したことじゃない。しかし、ただ落ち込み易い性格、と言うのではしっくりこないので、私はこれを私鬱と名づけ、私なりに対処して生きて行こうと思う。そのことを念頭に暮らしていて、この2週間ほどまた、私鬱が膨らんでいくのを感じながら、今朝、私鬱についてひとつの理解が生まれた。私鬱は、感性のひとつだ。私が世界をどのように解釈するのか、という感性のひとつである。コップに半分の水が入っていたら、「半分しかない」と思うか、「半分も残っている」と思うかに分かれる、とよく言われる例え話がある。最近読んだ詩集で、この例えに別の解が書かれていた。「コップがあって嬉しい、と思う。」だそうだ。そうか、と思った。世界は二元論では処理できない。コップに半分の水が入っていたら、「このコップ汚ねえなあ」とか、「水じゃなくてコーヒーが飲みてえんだよ」とか、さまざまな解釈が生まれて当然だ。私鬱は、そのさまざまある解釈の一つ、あるいは集合の結果でしかないな、と気づいた。世界は私を拒絶していて、私は力がなく、惨めで、生きている価値がない、と感じる、解釈する感性。それが私鬱なのだろう。そう腑に落とすと、忌み嫌っていたこの「私鬱」も、私の一部で、愛してやれないこともない。私の大切な感性、他の人にはない、私が私である所以の一つになる。そんな風に思った。

 

*落ち込み易いあなたへ

誰でも鬱になる可能性があるんだ、とよく言われる。だから、社会はもっと鬱に寛容になるべきで、鬱に対する理解を深めるべきだとの主張がある。私もそう思う。そう思うけれど、それを標榜する気概が、今の私にはハッキリ言ってない。前職のサービス業で、立場のある上司たちが会議の終わりに、「鬱みたいなやつはもう採用すんなよ」と話していた。何人か、鬱だとかその類の理由で社員の退職者が続いていた時だった。私自身、自分を鬱側の人間、メンタル不全の人間だと思っているから、反骨する気持ちがあった。差別だと思った。ふざけるな、と思った。個人の問題で鬱は関係ないだろ、と言いたかった。けれど、自分もアルバイトを採用する立場にあり、複数、メンタルに問題を抱える人間を採用したことがあった。私なりに、精一杯誠意を持って関わった。採用した彼彼女が急な欠勤をしても私が代わりに出られるようにした。勤務中にパニックを起こせば、個別に対応した。自身の経験を話し、心療内科への通院を勧めたりもした。結果としては、多くが、出勤できなくなって飛んだりする。採用コスト、教育コスト、急に飛ばれてシフトを調整するリソース等、経営でものを考えれば、採用するリスクは、そうでない人に比べて明らかに高い。人を生産性で価値づけて、雇用を市場原理の問題で片付け、当然だ、とするのは汚い。しかし、経営的なリスクを取り、結果黒字を出すことができず、店舗を潰したら。従業員、その家族、好きで通ってくれている常連様、全員が割を食う。私がそのように時間を使うこと自体が、機会損失になっている。日頃、経費の無駄を指導しているのに。その現実は現実として存在している。上司があんな物言いをするのに賛成はできないが、面を切って、そんな物言いを許さないと言えない自分もいた。私はチェゲバラにはなれない。自分の給与を返上して、彼らを雇う際のリスクの担保にできないかと進言することも、政治家になったり、政治家に声を上げてそういった環境に行政の力を注ぎ込んでもらうよう働きかけることも、できない。まず自分がかわいい。自分のことで精一杯。今はそんな人間でしかない。今は、と書いて、今すぐ、そんな人間を辞めると書かないんだから、私には覚悟がない。しょうもない。自己防衛が女々しいのでここで止める。

現実は厳しい。理想を言っても救われない。心療内科に行けば解決するわけでも無い。生活保護を受けたって生きていけるけど、それぞれの抱える私鬱や問題を解決できるわけでもない。何度助けてくれる手が差し伸べられても、掴めずに生きていくこともある。落ち込み易い人。鬱だと言われている人。その他メンタルの問題を抱えている人。救たくても、救えずにいるその家族。近しい人。私なんかより現実と闘っている人は数知れずいると思う。私も私鬱と闘いながら、自らのできることをする。こんなところに、こんな落書きを書いていることこそ、無意味だと思うけど、落ち込みやすいあなた、今生きているあなたを、私は厳しい現実と闘う戦友だと思う。死んだら、たぶん悲しい。今もいっぱい死んでる。死なんどいてくれ。鬱は風邪じゃ無いし、悪じゃ無い。私の場合は、単に、感性だと私は思って生きようとおもう。あなたのそれは、境界性パーソナリティ障害かもしれんし、適応障害かもしれんし、躁鬱かもしれんし、落ち込み易い、と病気の間のあなただけのものかもしれない。新年明けましておめでとう御座います。来年もまた、あなたがあなたで、私が私でありますように。