ボンバーマン
繁華街を歩くと緩やかに傾斜する曲線は少なく、どこもかしも角ばっている。看板、マンション、自動販売機、居酒屋の入り口や窓、駅の壁や床のタイル、コインロッカー、壁際にへばりつく黄ばんだコンセント。「No Smoking」の標識は赤い円を掲げているものの揺らぎのない正円がその出自を表現しており、余白を許さない社会を感じさせ、息苦しく思えた。「ここに住めと言われたんです。」とせつなげに揺れる街路樹の葉が中和するには、街のコンクリートは重たすぎる。松葉杖をつきながら裕一はそんなことを思っていた。エスカレーターもエレベーターも無い地下鉄の駅の階段を降りると、駅中の扉のないコンビニがある。少し前まではスーツを着こなしていただろう面影を残す体格の良い白髪のおじさんが気だるそうにレジに立っていた。疲れ切った顔のおじさんはまるで何も聞こえていないかのように空中をぼんやりと眺めている。何を見ているでもないその視線は緩やかに傾斜する曲線を描いており、吸い込まれるように裕一がふと目をやるとそこには、巨大な爆弾がぶら下がっていた。カートゥーンの世界観を思わせる黒くて丸いその爆弾は、しかし正円とは程遠く、歪な曲線を描いていた。爆弾は、はち切れんばかりの真っ黒な表面を蠢かせながら、街から家へ忙しなく急ぐ若者たちに気づかれることなく、どんどんと体積を膨張させている。あと一つ、少し先の尖った何かとぶつかれば、大爆発を起こすだろう。骨折してからというもの、歩く速度が三分の一に為った裕一にとって改札を抜けるまでの時間は長く、その爆発に巻き込まれる恐怖を感じていた。ようやく改札を抜けるころ、もうすぐだ、と安堵した束の間、もはや遠く聞こえるはずのない、コンビニで買い物をしている若い女の声が聞こえた。 「聞こえてんのかよ、おっさん!」 女の声は鋭く、酔っ払っているようだった。聞こえるはずのない声に疑問を抱くより先に、裕一は雷を思い出していた。2秒、経った。裕一は何も考えないように、落ち着いて階段を降り、ちょうど到着した地下鉄に乗り込んだ。
翌朝、その一画には黄色いテープが貼られており、毎日出勤がてらにコーヒーを買っていたサラリーマンが「まじかよ」と悪態をついて通り過ぎた。彼の視線は緩やかな傾斜を描き始めていた。
トリニダード・トバゴ
「トリニダード・トバゴ」と君が突然言うもんから、僕は大変に戸惑うのだった。「何それ、動物?」と聞くと、君はただ「違うよ」とだけ言って、それが何なのかは答えてくれない。遅くなったね、ごめんよと口では謝っているが、全くもって悪びれる様子のない不愉快な登場劇でやってきた夏の暑さが、じんわりと肌に絡みつきはじめた頃の朝方、布団の上だった。そして気づけば、僕はその島にいた。南風は全てを忘れさせてくれる、そう言っていた釣り人のお爺さんはとっくに死んだ。ここはトリニダード・トバゴ。南の島のハメハメハ大王を口ずさむおばさんのスカートが風に揺れた。
おしまい。
リハビリ
脳みそのリハビリ、書きたくて書くのではなく、書くために書く。歩きたくて歩くのではなく、歩くために歩くように。すでに読みづらい文章になっている。文法が整っていないからだろうか、それとも、と書いて言葉が続かない。脳みそにモヤがかかっているような気がして、そんなときは「いつも通り」ができない。今日はセイコーマートへ行ってイートインコーナーで豚丼を食べた。名札のない素敵な彼女のレジ打ちに気取られながら、無い金を産む魔法のカードを使って豚丼とタバコを買う。必要もないのに買ってしまうそれを積もるチリのひとつとして無視するが、後になって僕を地獄へひきずる悪魔として再会することは考えないようにしている。さて脳みそにモヤのかかった時のエピソードだった。袋をもらってイートインコーナーに向かった。テーブルは4人掛けのものに1人で座り僕は袋を投げ出した。当然のように(それは当たり前だが)豚丼を取り出して蓋を開ける。蓋を開けるときに表側についていた個包装のブラックペッパーを僕は確かに見ていて、そして「かけたい」という気持ちもあったことを覚えているが、それを意識が処理する前に僕は蓋をひっくり返してテーブルに置く(セイコーマートの豚丼を食べる時はいつもかけているのに!)。箸を取り出していざ食べようとする段になってようやく「ああ、ブラックペッパーを剥がさないと」と意識が起こる。一度ひっくり返してしまった蓋には内側に水蒸気のしずくがひたひたと広がっており、それを表側にする(つまりもう一度ひっくり返す)ことはテーブル-公共の場を汚す危険をはらんでおり気が引ける、が、瑣末なことである(拭けばいい)。ひっくり返してブラックペッパーを取るにはしっかりと止められた黒いテープを剥がさなければいけない。瑣末なことだと言いながらもテーブルが汚れることを気にしてしまいながらテープを剥がし、何か悪いことをしてしまったかのようにそそくさとまた、蓋をテーブルに置いた。ブラックペッパーをかける。ただそれだけのことが何か大変なことのように感じられ、重たい心を「重たい」と思わないように(そう思ってしまったらそうなってしまうと信じているかのように)、ブラックペッパーの個包装を開封するために手を動かした。マジックカットのある側とない側、どちらから開けようとしてしまったか、なんて普段は気にも留めず「ああ逆だった」と瞬間で切り替えるはずの一瞬がすごく長い時間のように思えた。テープを剥がすことすら半端だったために個包装の中心から右に4割ほどの面積を、仕事を終えてくたびれたテープがすがりつくように埋めている。だから、マジックカットのある側から開封したはずが3割ほどしかマジックカットできなかった。口の狭いブラックペッパーをようやく豚丼にかけている。かけているのだが狭い口と邪魔なテープでうまくペッパーをふりかけられない。よし、これでかけ終わった、とどんぶりの上空からひっくり返した蓋の上に小包装を移動させたはずが、まだペッパーの出力を残していた個包装が僕を嘲笑うかのようにペッパーを、テーブル-公共の場にばら撒くのだった。そんなとき「ああ、脳みそにモヤがかかっている。」と思う。いつも通りがいつも通りにできないのだ。体の歪み、肩の凝り、ああ心が歪むのが先か?身体が歪むのが先か?嘘つきが大好きな哲学のような卵か鶏か、考える必要のないことを曖昧な画角で描き、モヤがかかっていることを自覚せんとする。 だから、リハビリをしたい。 こんな夜にリハビリすらできないなんて思いたくないし歌いたくないのである。 来月もライブをする、(誰かの目を気にしながら)言葉を書くのはやめたい(全自動わたくしアピールマン)。
ライブをする。 5月は1日、12日、16日、17日予定があります。 Twitter(現X)でお知らせをしまするため、何卒ご贔屓にお願いします。 ぜひ会いに来てください。
PS 幸せです。 (「客観性のない文章をお許しください」)
生還
人が泣くのは、魂が震えるからだ、と思う。 悲しいことがあったわけでも、嬉しいことがあったわけでもないはずの、なんてことのない瞬間に涙が流れてしまうとき、また、それが頻繁に繰り返されたとき、本やインターネットが「ストレス過多で鬱傾向の症状」だとかなんとか言ったりするのを見て、「僕はつらいんだな」と自分を慰めたりしたことがある。今思えば、そんな不自由なことはない。僕らの不思議な生命の躍動が、その輪郭を垣間見せてくれるとき、僕らは不安になったり、活発になったり、笑ったり、そして泣いたりと、その衝撃を現実に発散する。本来、たくさんの退屈がそれらを受け止めてくれるはずが、スマートフォンの短くて速く、強烈な刺激の波にさらわれて「無かったもの」になってしまう。一方向の力学では愛が続かないように(すぐ濁る沼のように)、いつしか僕らの生命も愛想を尽かしてしまう。無自覚な孤独と退屈の放棄によって荒廃した砂漠で、時折生命が扉を叩くと「ああ、それはね、」と得意げな言葉が僕たちの首根っこを掴んで扉から引き離そうとする。
久しぶりに本を読んだ気がして、 嬉しくて泣いた。
僕とぼくらの恋路を邪魔する「ああ、それはね、」星人に負けないように、愛想を尽かしてなかなか振り向いてくれない生命の背中に「ごめんね!」と叫ぶ。