思索記

ものを考える。詩。

あれって本当にそうかな

あれって本当にそうかな、と思うことが沢山ある。大抵の場合は「やっぱりそうだ」なんて思うわけだけど、そうでないことなんかがあったりすると、はてこれは、と立ち止まってしまう。

 

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例えば、クリープハイプ尾崎世界観iPhoneのメモアプリに書き込んだ歌詞をTwitterに投稿した。それを読んで上手いことできてる歌詞に感心してしまって、自分の書いた歌詞と比較して落ち込む。自分を慰めるために「いやいや、それで飯食うために毎日創作してるやつと、気が向くやら向かないやらでやったり、やらなかったりしてるやつで差が出るのは当然だよ。」なんて考えたりする。もっともらしい。

そりゃ、一所懸命やってる人間に半端な人間が及ばないのはどの場面どの世界でも同じだよな、なんてウンウンと自分でうなずく。

 

ところがどっこい、仕事に追われて歌えてない、ギターも弾いてない、全然ダメじゃねえか、って半分最初から負けた気持ちで歌ったライブで「前より歌が上手くなってるね!」なんて言われたりする。なんだそりゃ、一所懸命やってないのに。そう思うと、やったかやらないかなんて、あれって本当にそうなのかな?となる。書いてみると、響くところがなかったもんだから、適当におべんちゃら言われただけだったんやろな、と思っちゃった。そう思うと、やっぱりそうだ、一所懸命やってなきゃいいもんなんてできねえ、となる。でも、これって本当にそうなんかな?

 

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「生きてる意味なんてハナからないよ。自分で好きに決めればいい。」とか思い詰めてみる。日本に生まれました、親は不仲でした、お金には困りませんでした、晴れの予報だったけど雨が降りました、靴ひもがほどけました、大事な時に忘れ物をしてしまいました、お腹がすきました、やりきれなくて死にました、けど死ねませんでした。生きてる意味なんてあるんですか?

ないです。だけど決められます。数字と同じで、無いものをあることにできるのが人間です。だから、生きる意味なんてないけど、だからこそ好きに決めて勝手に信じてればいい。

そんな風に自分を慰めたりして、同じようなことを書いてる本を読んだりしては、これって本当なんだよな、と思う。

 

ところがどっこい、ヒカルの碁でサイが現世に蘇った理由に気づいたシーンを読むと、とか、NANAで奈々とナナが出逢っちゃったりしてるのをみると、とか、あの人と出会わなければ俺は今ここにいなかった、みたいな経験をすると、あれって本当にそうかな?と立ち止まる。

 

父ちゃんと母ちゃんが生きていなければ、俺は生まれてない。生まれていなければ、生まれてくることに意味がないと考えることすら、考える機会がなかった。こんな話には、みんな口を揃えて「俺も昔、そう言うこと考えたことがあったよ。」と言う。生まれも育ちも全然違うのに、みんな考えるんだけど、みんなもそう考えるのは親が出会ったからで、生まれたからで、「〜だから」というのは理由であって、理由というのは意味であって、つまり生きることは人間が生まれた意味について考えるためという意味を持っている?生きるってことは食べるってことで、歩くってことで、出会うってことで、生活をするってことで、他者に、世界に関係しないことは無理なんであって、そうすると僕が食べたから、歩いたから、出会ったから、生活をしてるから、動いたというものがある以上、生きてるだけで無数の意味が生まれ続けてることになるわけで、生きてることに意味なんてない、なんてあれって本当にそうなのかな?ってなる。

 

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本当にそう、ってものがあると思ってること自体が間違いなんだろうな。二度あることは三度ある、やっぱりそうだよな、三度目の正直、確かにそうだよな、あれ?そしたら二度あることは、、って本当にそうかな?どうかな、みたいなことで、複雑な条件が沢山あって、一度たりとも同じ瞬間なんてなくて、その時にそうでも、その時にはそうじゃないことしかないんだろうな。

けど、本当にそうだということがないなら、真理って言葉があるのはなんで?愛は?ってなったら、本当にそうということなんてハナからないんだよ、なんて本当にそうかな?ってなったするからまた立ち止まる。

 

あれって本当にそうかな?