思索記

ものを考える。詩。

生還

人が泣くのは、魂が震えるからだ、と思う。 悲しいことがあったわけでも、嬉しいことがあったわけでもないはずの、なんてことのない瞬間に涙が流れてしまうとき、また、それが頻繁に繰り返されたとき、本やインターネットが「ストレス過多で鬱傾向の症状」だとかなんとか言ったりするのを見て、「僕はつらいんだな」と自分を慰めたりしたことがある。今思えば、そんな不自由なことはない。僕らの不思議な生命の躍動が、その輪郭を垣間見せてくれるとき、僕らは不安になったり、活発になったり、笑ったり、そして泣いたりと、その衝撃を現実に発散する。本来、たくさんの退屈がそれらを受け止めてくれるはずが、スマートフォンの短くて速く、強烈な刺激の波にさらわれて「無かったもの」になってしまう。一方向の力学では愛が続かないように(すぐ濁る沼のように)、いつしか僕らの生命も愛想を尽かしてしまう。無自覚な孤独と退屈の放棄によって荒廃した砂漠で、時折生命が扉を叩くと「ああ、それはね、」と得意げな言葉が僕たちの首根っこを掴んで扉から引き離そうとする。

久しぶりに本を読んだ気がして、 嬉しくて泣いた。

僕とぼくらの恋路を邪魔する「ああ、それはね、」星人に負けないように、愛想を尽かしてなかなか振り向いてくれない生命の背中に「ごめんね!」と叫ぶ。