思索記

ものを考える。詩。

リハビリ

脳みそのリハビリ、書きたくて書くのではなく、書くために書く。歩きたくて歩くのではなく、歩くために歩くように。すでに読みづらい文章になっている。文法が整っていないからだろうか、それとも、と書いて言葉が続かない。脳みそにモヤがかかっているような気がして、そんなときは「いつも通り」ができない。今日はセイコーマートへ行ってイートインコーナーで豚丼を食べた。名札のない素敵な彼女のレジ打ちに気取られながら、無い金を産む魔法のカードを使って豚丼とタバコを買う。必要もないのに買ってしまうそれを積もるチリのひとつとして無視するが、後になって僕を地獄へひきずる悪魔として再会することは考えないようにしている。さて脳みそにモヤのかかった時のエピソードだった。袋をもらってイートインコーナーに向かった。テーブルは4人掛けのものに1人で座り僕は袋を投げ出した。当然のように(それは当たり前だが)豚丼を取り出して蓋を開ける。蓋を開けるときに表側についていた個包装のブラックペッパーを僕は確かに見ていて、そして「かけたい」という気持ちもあったことを覚えているが、それを意識が処理する前に僕は蓋をひっくり返してテーブルに置く(セイコーマート豚丼を食べる時はいつもかけているのに!)。箸を取り出していざ食べようとする段になってようやく「ああ、ブラックペッパーを剥がさないと」と意識が起こる。一度ひっくり返してしまった蓋には内側に水蒸気のしずくがひたひたと広がっており、それを表側にする(つまりもう一度ひっくり返す)ことはテーブル-公共の場を汚す危険をはらんでおり気が引ける、が、瑣末なことである(拭けばいい)。ひっくり返してブラックペッパーを取るにはしっかりと止められた黒いテープを剥がさなければいけない。瑣末なことだと言いながらもテーブルが汚れることを気にしてしまいながらテープを剥がし、何か悪いことをしてしまったかのようにそそくさとまた、蓋をテーブルに置いた。ブラックペッパーをかける。ただそれだけのことが何か大変なことのように感じられ、重たい心を「重たい」と思わないように(そう思ってしまったらそうなってしまうと信じているかのように)、ブラックペッパーの個包装を開封するために手を動かした。マジックカットのある側とない側、どちらから開けようとしてしまったか、なんて普段は気にも留めず「ああ逆だった」と瞬間で切り替えるはずの一瞬がすごく長い時間のように思えた。テープを剥がすことすら半端だったために個包装の中心から右に4割ほどの面積を、仕事を終えてくたびれたテープがすがりつくように埋めている。だから、マジックカットのある側から開封したはずが3割ほどしかマジックカットできなかった。口の狭いブラックペッパーをようやく豚丼にかけている。かけているのだが狭い口と邪魔なテープでうまくペッパーをふりかけられない。よし、これでかけ終わった、とどんぶりの上空からひっくり返した蓋の上に小包装を移動させたはずが、まだペッパーの出力を残していた個包装が僕を嘲笑うかのようにペッパーを、テーブル-公共の場にばら撒くのだった。そんなとき「ああ、脳みそにモヤがかかっている。」と思う。いつも通りがいつも通りにできないのだ。体の歪み、肩の凝り、ああ心が歪むのが先か?身体が歪むのが先か?嘘つきが大好きな哲学のような卵か鶏か、考える必要のないことを曖昧な画角で描き、モヤがかかっていることを自覚せんとする。 だから、リハビリをしたい。 こんな夜にリハビリすらできないなんて思いたくないし歌いたくないのである。 来月もライブをする、(誰かの目を気にしながら)言葉を書くのはやめたい(全自動わたくしアピールマン)。

ライブをする。 5月は1日、12日、16日、17日予定があります。 Twitter(現X)でお知らせをしまするため、何卒ご贔屓にお願いします。 ぜひ会いに来てください。

PS 幸せです。 (「客観性のない文章をお許しください」)