思索記

ものを考える。詩。

馬鹿にされるとイライラするのは何故か。を考える

【なぜ考えるか】

私はイライラすることがある。多くの人も同じようにそうだと思う。今日もバイトでイライラすることがあった。あるお客様が会話中に、急に舐めた態度を取るようになったことに腹を立ててしまった。

 

「舐められている」

「馬鹿にされている」

「見下されている」

このように感じると、私はイライラしてしまう。

 

例えば、

初対面の年下が急にタメ口で馴れ馴れしく、尊敬の感じられない態度で接してくる場合や

何かに詳しい人が、「これも知らないの?(笑)」と馬鹿にしてくる場合など。

 

書き起こすと、私自身の器が小さいだけだと感じられるが、実際にイラッとするのは事実である。大変に恥ずかしいことだ。

 

イライラして良いことなどない。

どうにかイライラしないようになれないだろうか、と思った。

その為に、なぜイライラするのかを考える必要を感じた。

 

そこで今回は以下の2点を考える。

1. イライラするのは何故か

2. どうすればイライラしないようになるか

 

 

1.【イライラするのは何故か】

 

イライラするのにも、色々な場合がある。

今回は

他者との関わりにおいて、

「舐められている」

「馬鹿にされている」

「見下されている」

などと感じる場合に起こるイライラについて考える。

 

(I)イライラを産む考え方

イライラする理由は『自らの人間的価値をどのように判断するのか』の信念について理解すればわかる。

 

この信念は2種類ある。

1つは「比較」によって価値を決定するもの。

1つは「成長度合い」によって価値を決定するもの。

 

イライラを産むのは、前者の信念を持っている者だけである。

 

前者の人間、つまり比較によって人間的価値を決定する人間は、他人と自分を常に比較する必要に迫られる。

 

「自分はアイツよりは上で、アイツよりは下。その位置にいる。」

などと、他人と自分との優劣の比較によって自分の位置を把握し、その高さを自らの価値とする。

 

自分より下だと思える他人と関わっていれば、自らの価値に不安を感じることなく、安心していられる。自信が湧く。

よって、関わる他人のことは、常に下げる、見下すなどしなくては安心できない。

 

肩書きや、何ができるとか、何を持っているとか、何に詳しいなどを、他人に示したがる。

そうして、「自分の方が上だ」と認めさせ、安心しようとするのが特徴だ。

 

そして、今回考える“イライラ”を感じるのも、この信念を持っている者たちだ。

(つまり私は、この信念を持ってしまっているということである。みっともない。)

 

信念の話が長くなった。

イライラするのは、人間の価値を比較によって決定しようとする者である。

 

(ⅱ)何故イライラするのか?

 

それは、イライラすることで

「他者に上回るための行動」ができるからである。

 

「怒り」というのはエネルギー(行動のための原動力)だ。

大切なものを傷つけられそうなとき、

自分の命が脅かされるとき、

人は「怒る」ことで自らを危険に晒すものに対処するためのエネルギーを産む。

「こんちくしょう!」

「このやろう!」

ということだ。

 

自らの信じる「人間的価値」は生きていく上で拠り所となり、非常に大切だ。

ゆえに、その価値が脅かされそうな場合、怒り、エネルギーを産んで対処する必要がある。

 

先述の信念によって

「他人より上でなければ自らの価値が無くなる」と信じている者は

「舐められている」

「馬鹿にされている」

「見下されている」

と感じることが

自らの価値を損なうことに直結する。

それは許せるものではない。

 

ゆえに、“イライラする”のである。

 

怒ることで

声を荒げる

強い言葉を使う

暴力を振るう

イライラとした態度を示す

気にしてない風を装う

などの行動を取り、

自らの価値を脅かす存在に対処する。

 

そうして

「自分はあなたより上だ」

と示せれば、安心するのである。

 

その為には“イライラする”のが合理的で自然な反応だ。

 

イライラしてしまうのは、

比較によって自らの価値を判断する信念のために、常に他者より上だと示す行動をとる必要に迫られているからだ。

 

2.【どうすればイライラしなくなるか】

 

他者と比較せずに自らの価値を判断できるようになれば良い。信念を塗り替えることだ。

 

自らの価値を判断するための信念は2種類ある。

1つは「比較」のよって価値を決定するもの。

1つは「成長度合い」によって価値を決定するもの。

 

後者の信念に切り替えれば良い。

まずは前者に従って価値判断を行っている自分に気づけるようになる。そして、後者の立場に立って思考するよう意識していく。

 

成長度合いによって価値を決定するというのは

「何を、どれだけ学んだのか」によって自分の価値を更新し続けるという考え方である。

 

この場合、人間的価値は損なうことなく、常に上昇していく。

なぜなら、

「今まで経験したこと、学んだこと、積み上げてきたこと」が自らの価値であり、その後の経験は全て学びの対象であるからだ。他人と比較する必要がない。

 

自分に対して

馬鹿にしてくる人

見下してくる人

などがいても、

それらは学習対象でしかなくなる。

 

「何故この人は馬鹿にしてくるのか?」

「こういう人にはどのように対処するのが良いのか?」

「この人のような考え方は、どのような背景によって産まれるのか?」

などを知る機会になる。

 

それがわかれば「成長する」ことになり

自らの価値が上昇するのであって

自らの価値が脅かされると感じないので

“イライラする”必要がないのだ。

 

信念に無意識であることは多い。

気づかないうちに、意識していないところで思考している割合のほうが多いのだ。

私たちが「考えている」と思っている部分は、脳が思考しているものの10%程度でしかない。

 

だから、イライラする原因の思考回路に気づいても、すぐにガラリと変われるわけではない。

何度も気づき、修正していかなくてはいけない。

 

比較の地獄から、出来る限りはやく抜け出したいと思う。

 

【余談】

 

比較によって価値を決める信念が悪だとは思わない。一つの考え方であり、競争もまた成長・発展を産む。

しかし、この信念が産むものは

「敵」

「争い」

「イライラ」

であって、私はこれらを好むことができない。

弱いのである。耐えられない、疲れる。

だからそこから脱出したい。

 

この信念を持っている人は少なくないと思う。

学校教育に起因するのではないか。

テストの点数、足の速さ、出席日数、授業内での発言回数、給食を残さず食べた回数

何かにつけて順位をつけて競争させる。

 

たしかに成長するには手取り速かろうが、私のように弱いものには寧ろ辛いだけだ。

少数の勝者と多数の敗者を生む。

敵を産み、争いを産む。

資本主義的だ。

 

繰り返すが、悪だと非難したいのではない。

メリットとデメリットがあり、デメリットの部分に私個人は馴染めなかった、と言いたいのである。

 

完璧なものなどないので、常に考えることを怠らないでいたい。