思索記

ものを考える。詩。

心を豊かにするとはどういうことか。

豊かさとは何か。まず想起されるのは、一面に広がる稲穂だった。夕焼けた空に、果てなく広がる実った稲(稲を育てる場所をなんというのか知らなった。少し調べたがまだわからない。畑とは言わないようだ。田んぼ、だと私のイメージする光景と一致しないのはなぜか。馴染みがないからか。)。

 

お米は腐らないからお金として使われた。お金をたくさん持っていることが豊かさと言われる所以はここにあるのかもしれない。

稲を育てたことはないが、ヴィンランドサガ(幸村誠先生が連載中の漫画。とても良いので是非よんで欲しい)で森を拓いて畑を耕す描写を読んだ。長い時間をかけて、土地を拓き、土を耕し、種を蒔いて、天に祈り、手を加え、ようやく実る(同漫画では稲ではなく麦だな。稲じゃなくて麦畑を想起していたのだった。どうりで田んぼではピンと来ないわけだ。)。

 

実りが良くなければ、生きていけない。実りがあってようやく生きていける。実りが多ければ贅沢ができる。実りが過ぎれば身を滅ぼす(アーメン、鉄拳ケティル)。

 

稲や麦が沢山実ることは、今日を、明日を、冬を越して生きられることに対する安堵と喜びの象徴している。つまり豊かさとは、安心と喜びを獲得することが約束された状態のことである。

 

お金があれば、食うに困らない。住むに困らない。急な病気にも備えられる。また、行きたい場所へ行けて、欲しいものが手に入り、したいことができる。なるほど、お金を持つことも豊かさである。

 

では、心を豊かにするとは何か。

心とは容易に定義し得るものではないが、便宜上ここでは「気分」のこととする。

気分は憂鬱であり、喜びであり、悲しみであり、怒りであり、飢えであり、欲であり、嫉妬であり、退屈であり、また、高揚である。細分すれば多岐にわたるが、つまるところ快か不快か、その状態のことである。

したがって、ここで心とは、快と不快を感じる機能のこととする。(心療内科の先生が「君は劣等感を持っているね」と言ったのちに、「結局、快か不快かしかないんだよ」と言った。続けて、「不快なことばかりしていたらいけない。気持ちいいことをしなさい。」と言った。それで救われたことがある。ただし、一個人を本当の意味で救えるのは当人のみである。救われたと感じるだけでは、そこに安寧はない。余談。)

 

このように考えると、心を豊かにするとは、快や不快を感じる機能を、安心と喜びを獲得し得る状態にすることだと理解できる。

 

一般的に、機能を変化させる場合は、根本的な改良が必要となる。

例えば、車を速くしたいなら、エンジンやタイヤ、ボディの材を変えなければいけない。音楽を聴けるようにするには、プレーヤーを組み込まなければいけない。お尻の痛くならないようにするには、クッションを用意したり、座席を取り替えなければいけない。

このように、機能を変化させる場合には、既にあるものだけでは、どうにもならないのである。

 

心の場合も同様である。心に対して、新たな手法を加える必要がある。心の本体は解明されていないが、概ね脳みそだと言って差し支えない(心は心臓にあるのだ!と言う方がいたら、申し訳ない。そうかもしれないよね。)。

したがって、脳みそに対して新たなものを追加する方針で間違いはない。

 

では、何を与えてやれば心が豊かになるのだろうか。

 

眠くなってきたので続きは次回とする。おやすみ。