思索記

ものを考える。詩。

25歳

早生まれだから、同級生に追いつくのが少し遅い。私もようやく25歳になった。「私」と自称することに違和感がある。大人ぶってるみたいで気持ちわりー。少し前はそんなことなかった気がするのにな。精神が後退している。「精神が後退している」の馬鹿っぽさ。馬鹿なんだからしゃべるな。「チ」という漫画でパデーニが言っていた言葉を思い出す。文字を扱うことは特権にすべきで、馬鹿が言葉を使うようになるとロクなことにならない。ロクでもない文章が表現が世の中に溢れることになる。最悪だ。お前はモノなんか書くんじゃない。結局物語は馬鹿の描いた感動が馬鹿を介して紡がれた訳だけど、感動を表現するのは言葉じゃなくてもいいもんな。日本は後進国になっているらしいけれど、確かにそうなのかもしれない、愚かな文字で溢れている、と思うのは私が愚かだからですよ。あなたが愚かだからですよ、お金持ちの周りにはたくさんのお金が流れるように、愚かな人間の周りには愚かな言葉が流れるモノ、なのでしょ。暗い気持ちの吐露なのかもしれない。この記事は脈絡なく、右脳に任せて言葉を書き殴るだけのものだから、読まなくてもいいんだけど、というのは嘘で、読んでほしい?いや、別に読んで欲しいわけじゃないような。なんなんだろう。意味なんかないと言いたい。こういう時は大体、認めたくない恥ずかしい自分から目を逸らしている。承認欲求モンスター?Haha、ドキドキするじゃないですか。猫が鳴いている。お腹の上に乗ってきた。暖かくない。暖かい。途切れた。右脳で書くと言っておきながら、猫の温度を感じた途端に言葉が止まった。言葉はやっぱり左なんだね。左。高校に行けなくなった時、保健体育の教科書ので読んだコラムが永遠のテーマ。アイデンティティの崩壊。自己の喪失。私は何が好きで何が嫌いで、何に感動するのか、嫌なのか、気持ちいいのか、わかる私に戻りたい。こぞのそうたとは共有したことがあるけれど、「戻ってきた」感覚って涙が出るほど感動するんだけど、どうなんだろ。みんなこんなふうに生きてるんだな、そりゃ、俺(ら)の気持ちなんかわかる訳ないよ、だって空の色も、風の匂いも、嫌な気持ちも、好きな気持ちもちゃんと受け取っているじゃないか。自分を取り戻したい、いや、そもそも自分なんてないんだけれど、健康で素直になりたい。心が、人格が。超メンヘラ文章じゃない?心配しなくてもそれなりに元気にやっています。安心してください。よそ様はいいよね、って表現をしてしまったな。だっせ。そのよそ様の気持ちも、苦しみも、喜びも僕にはひとつもわからない。わからなくて当然なのに、俺は可哀想でオタクらは幸せなんだろって拗ねるのって本当にださいよね。ましてやこんなに恵まれているのに、だけど比較じゃないかこういうのって。だいぶスッキリしてきた。頭の中で渦巻いているものを文字に起こすことでドロドロとしたものが少しずつ濾過されていくような気がする、溜め込むのは良くない、お金も気持ちも悩みも苦しみも。猫も溜め込まないのかな、犬はうつ病になるって聞くけど。鳥もうつ病になるんだっけ。じゃあ猫も溜め込むことあるよな。家猫だけ?野生の動物にうつ病ってあるのかな。研究してる人がいそうなテーマ。頭がいい人教えてください。動物、怖い。僕もひどく動物なんだけど、人間でもある、25歳、と書いたのだった。やってることが14歳から変わらない。11年。何の成長もないように感じるのは、ぼんやりと生きてるからだ。そうだ、さっき書きたかったことも脳のシナプスが教えてくれた瞬間、ブルーハーツの話。アイデンティティの崩壊と、自己評価の確立と、「自分」を失う感覚を思うと、ブルーハーツの曲が流れる。「何にも見えなくなっちゃうよ」「何にも聞こえなくなっちゃうよ」だって。「嘘つき」が嫌いだって僕の価値観は、ハンマーがルーツになっているかもしれない。安っぽいメッキなら、すぐに剥がれてしまうから。空っぽの言葉なら、もう聞き飽きたから。そう、友達の家で友達が歌ってくれた僕の歌に、「嘘つきは嫌いだ、僕はどうだ」って歌詞があった。全然歌ってないし、思い出して練習しないともう歌えない曲だけど、あ、俺そんなこと書いてたんだって思った。思えば、そんなことばかり思って生きていたような気がする。今は全然そんなことないけど。でもこれも歪んだ見方で、当時だって今みたいにクソッタレにもなれない=息をしてない=死んでいるような日もたくさんあったんだろ。365日で、自分らしくいられる日なんて2日くらいらしい。少し疲れた時は、フランダースの犬よろしく、もう疲れたよ、パトラッシュ、って感じで永遠に眠りたい。元気は欲求。欲求は活力。活力はエンターテイメント。受け取る力、感受性。生み出すことっていいことだよ、誰かに活力を与える、活力が欲求になり、欲求が元気になり、元気が生み出すエンターテイメントは、また誰かに活力を与える。自己満足のステージはかっこわるいよ。エンターテイメントでなくっちゃ、そうじゃないならお家でやるか、宗教でやるか、奴隷とやるか、弱みに漬け込むか、そんな感じなんだよな。コロナが始まってもう何年経った?わかんないけど、時代が変わったのか、僕がおっさんになっているのか、あの熱気が恋しい。鬱陶しかった、嫌いだったけどあの熱狂が社会にないのは寂しいよね。なんだかジメジメしている気がする。やっぱり日本はこのまま終わるのかもな。日本語の美しさ、なんていうけれど、美しいってなんだ?とか、感じたり考えたりしてるニホンジンってどんなけいるの。一億総常時接続時代だからよく知ってる気になるけど、そんな美しい人はやっぱりいっぱいるはずだ。いないとか少ないとか思うのは、自分がそういう人間ですっていう自己紹介になるわけだ。主語がでかいことを言う人は、小さい世界しか知らないと言うことなのでしょ。これも自己紹介?。自己紹介以上の言葉なんてあるわけないか。自分から出てくる言葉なんて、自分そのものでしょ。じゃあ、「私」と書くのが恥ずかしいのは、「私」を書くのに相応しい脳みそを積んでいない、そう言う状態にないんですよと言う自己紹介になる。猫の鳴き声も自己紹介なのかなあ。寂しそうに鳴くなよ。

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25歳。ビリーアイリッシュが毎年アップしてたインタビューってまだ更新されてんのかな。「人間は川の水のように、絶えず変化し続けるものなのです。」と、認知行動療法の権威はおっしゃった。7つの習慣にもそんなようなこと書いてたような。やっぱり溜め込むのは良くない。流れ出ていかない水は死んだ沼になる。消費ばかりじゃいけないよな、ある程度安定しちゃって、売れるものもなくなって、お金が欲しい奴が考えたのが、退屈の搾取。僕らの人間を殺しているのだ、あ、思想的、アブナイ。決して陰謀論を唱えたい訳じゃない。あ、この焦り方はやばい。僕陰謀論者なんだな。結局何かのせいにしたいだけなんだよ、逃避、転嫁。あの人元気かな、って気にかけてくれる人を、死ぬその日までに何人作れるか、ということこそが、「友達100人できるかな 100人で食べたいな」の歌のテーゼ。できるかな?と言う挑戦状、一年生から始まる社会。半社会。半社。

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まとまりのない文章はまとまりのない人間を表す。時々鏡を見てみるといいよ、目は口ほどにモノを言う、テマエの人間を表している。欲求がなくなってしまった、砂漠のなかでひとりぼっち、喉も渇かないとしたらそれって生きてる?みたいなはなし。あ、繰り返しますけれどそれなりに元気です、ご心配には及びません。死にませんし、死ぬ気も起きてないし、やりたいことがたくさんある。ヒマヤラほどに。て、別に心配する人もいないかもしれないけれど。どうでもいいか。どうでもよくない。まず与えよ、されば与えられん。くっだらねー!

ことが大好き、でいたい。意味もなくチョークを粉々にしてみたり、一生懸命鼻くそをほじったりしていたい。最近映画を見てないな。見る気にもなれないんだよな、本も読んでない。消費ばかりしている、対象の話じゃない。何をするにも、消費と使用がある。やらされているか、やっているか、脳が活動しているか、していないか、みたいな。

 

つかれたからおわり。おやすみなさい。

もしここまで読んでくれた人がいたら、ありがとう。元気なかったら遊びにおいで、元気だったら生み出しておくれ、おやすみ。