「うまいやり方ありますか?」
「どうすれば上手になれますか?」
「いい勉強法(or練習法)ありますか?」
などと質問する初学者に対して
そんなこと(効率的なやり方)を聞くより先に
行動してしまえ、という考え方がある。
これには確かに理があって
行動してみて初めてわかることが多いことや
行動しなければ理解できないこともあるし
或いは上記のような質問をする者は
口だけで行動をおろそかにする傾向もあるのかもしれない。
そう考えてみると、
やはり方法論よりも実践を優先して
とにかく行動することが良しという考え方が正しいと思えてくるのだが
今日はふと、その反対の論理を思い立った。
方法論の方が実は重要であり、優先すべきではないのか、ということである。
例えばギターを弾けるようになりたい人が、
とにかく弾きまくる場合と、効率的な練習方法を学ぶことを優先する場合を考えてみると
前者では、たまたま才能があったり、根気よく努力できるバイタリティを持っているなどの要素を持っていれば練習を継続できるが、
そういった者は少数であり、多くは練習することに「嫌気」がさし、「練習を継続できない」状態になる。
とにかく行動を優先するという考え方の問題点はこの2点にあって
「嫌気がさす」というのは、感情であり、
感情によって行動する人間にとってこれが致命的で、「もうやりたくない」「ギターは楽しくない」「ギターは面白くない」などと
「ギターは嫌なものだ」という考え方が無意識下に生まれ、それに追従する思考回路を持つことになる。
その結果「継続できない」状態になると
「単純接触効果(接触回数に比例して好意感が増していくという心理効果)」が逆転して働くことになり、
「ギター」に接触するたびに(会話にでる、ギターが目に入る、ギターを弾く人に出会う)、ギターへのヘイトが増幅していくのである。
こうして、行動を優先し始めたことによって、「ギターを弾くこと」にかえってネガティブな印象を抱くことになる。
それに対して効率的な練習法を学ぶことを優先した場合には、とにかく行動するのに比較すると上記のリスクが減る。
成果の出やすい練習によって嫌気がさしにくいし、色々な練習法を試していくことになるので練習が継続し、さらに好意をもった上で「ギター」との接触回数が増えるのでモチベーションは増幅していく。
このように考えてみると、とにかく行動するという考え方はリスクが高く、方法論を学ぶことを優先するべきだと言える。
人に聞くというのがいかんのだ、まず自分でやってみろ、というのも同様で
自分でやってみることによる「嫌気がさす」というリスクが、一般に想定されているよりも大きいと思うのである。
まず自分でやってみて
「嫌気がさした」ら、
元も子もないどころか
むしろマイナスである。
また、方法論そのものが優先されるべき理由として、人間の行動は環境によって生まれることがある。
この環境というのには自らに内在する「概念」「イメージ」なども含まれる。
テレビで美味しそうなラーメンを見たら
食べたくなるのと同様に
「いい練習方法」を知ることによって
練習したい、と思えるようになるのである。
方法論が脳内に概念として蓄積されていけば
結果として行動に対する欲求が生まれていくのである。
ここで、行動さえしてしまえば作業興奮などによって行動の継続につながるという主張は前述の「嫌気がさす」リスクに対してメリットが弱い。
とにかく行動することが優位であるという考え方が広まると、気軽に人に質問しにくい風土になってしまう。
方法論によって行動が生まれるのだから、行動よりも方法論を優先することがスタンダードになるべきではないか。
「良いやりかたありますか?」と聞かれれば、間違ってても良いから何か方法論を伝えれば良いのだ。(ただし、色々な方法を学ぶことそのものを意識するように伝えること)
そうすれば、新しいことに挑戦していく人が増えていくのではないか。
などと、これまた、タバコを吸いながら
ふと思いついたのである。
ここまで主張しておいてナンではあるが
上記の論は極端で
どちらを優先すべきか、というのは一般性を持たせられないことであるとも思う。
ケースバイケースだし、「行動」と「方法」を二元論的に議論することにそもそも無理があって
相互に作用しあっていて、状況に応じてうまく活用していくというのが最終的に正しいとも、思う。
皆さんはどう考えるでしょうか、
ヒマがあって興味があったら議論しましょう。
考えるのに面白そうなテーマもあったら教えてください