思索記

ものを考える。詩。

能力評価的生き方の不安定性を考える

ボーッとタバコを吸いながら、あらゆる面において自分よりも優れている人間が目の前にいたら、という突飛な考えが浮かんですごく嫌な気持ちになった。

 

以下の人物を想像してみてほしい。

 

「自分の得意だと思っていること、考えることかもしれないし、コミュニケーション能力か、スポーツだとか音楽だとか、なにかの分野における知識だとか、なんでも良いのだが、それらにおいて自分より遥かに優れていて、実際に実績も残している。

その上、自分が苦手としていることを苦手としておらず、あらゆる面において自分よりも充実した生活を送っている。そんな人物が、自分の属しているコミュニティに新しく現れた。

(たとえばわかりやすく英検一級を持っていて英語に自信を持って会社では国際貿易業務を担当していたとして、英検一級、加えてTOEICTOEFL満点、海外でのビジネス経験もあり実績も多く、苦手としている上司や部下との付き合いも自分より円滑にこなすような人物が入社してきた、とか。)」

 

どんな気分になるだろうか。

 

私は、自分というものが失われるような、

今まで、そしてこれから自分を支えてくれるはずだったものが崩壊していくような、

どこに帰るでもないのに、帰りたくなるような

そんな気分になった。

 

なぜそんな気持ちになるのか考えると

「〜ができる自分」という

能力を評価して自分の価値を見出す考え方をしているからだ、と気付いた。

 

英語ができる、

いいライブができる、

いい曲が作れる、

お金を稼げる、

絵を描ける、

野球ができる、

サッカーができる、

運動が得意、

お酒に詳しい、

お酒の味がわかる、

おしゃれがわかる、

おしゃれができる、

いい学校に入学できる、

いい点数が取れる、

いい評価が得られる、

 

など、人によって様々、自分の何かしらの能力に自信を持っていると思う。(例が偏っていて申し訳ない)

このように「〜できる」と自分について述べるとき、何かの基準(多くは他人)との比較を行っていることになる。上記の「〜できる」の羅列に、「他の人よりも」を最初に加えて読み直してほしい。

一読したときに共感できる部分があったとしたら、「他の人よりも」を加えて読み直しても違和感がない人もいるのではないだろうか(いや、私だけなのかもしれないが)。

 

違和感なく、確かにそうだと思った人は

能力評価的な生き方をしていると言える。

 

つまり、「他人と比べて、自分は何が優れているのか」ということが自分自身に対する価値判断と直結する生き方をしている。

 

だから、あらゆる場面において自分の能力を超えた人物が現れると、自分自身に対する自信が失われ、どうしようもなくなってしまう。

 

冷静に考えれば、目の前に現れなくても、自分よりもあらゆる面で優れている人物は必ずいる。人には得手不得手があるから、部分的に劣っていても、全てが劣る訳ではないのだから、自分のできることに注目しよう、などと言うのは誤魔化しである。目の前に現れるかを別にすれば、何においても勝てない人間はいる。

そう考えてみると、能力評価的生き方はそもそもが破綻している。

 

「できる」という言葉そのものに、他人との比較が共存していて切って離すことはできない。

そして、比較すると自分よりも「できる」人間は必ずいるのだから、

「できる」をベースに自分に価値があると真に言うことができるのは、実際に「1番」である人物ただ1人になる。

 

そして、自分よりも優れている人物と接触することになる可能性は常にあり、インターネット網によって、その確率は大幅に上がっている。

閉鎖的な環境では一定の「自信」を作り出す考え方かもしれないが、今の時代ではもはやその有益性には期待できない。

 

その意味で、自分の価値を「実際に何ができるか」によって定義するのは危険であり不安定であると言える。

 

ではどのように考えて自分の価値を保てばいいのか、については、人間であれば担保される脳そのものの能力に価値をおけば良い、と考えた。

程度に差はあるが、「学習し成長できる」という点において、人間であれば全ての人に共通する脳そのものの能力である。

この場合の「できる」が比較しているのは人間とそれ以外の動物であるから、この能力に自身の価値を置く考え方に破綻はない。

人間よりも学習能力の高い宇宙人やら何やらが現れれば別であるが、そうなれば家畜同様に扱われるようになるだろうから、現在のような生活は送れなくなり、自分の価値などを考えている余裕は無くなる。

 

そして、実際に何ができるかではなく、

「学習し成長する」ことが自分の価値であれば

自分よりも何かが「できる」人物は自分価値を脅かす存在ではなく、学習対象になる。

 

自分よりも何かができる人物には、

すごい!と素直に思うことができ、

どうやってやるの?と聞く対象になる。

 

思い返せば、第二の誕生をする前、物心のつく前の幼少時代は私もこのようだったはずだし、全ての人がそうであったはずだ。

 

いつからか、「他人と比べて何ができるのか」ということに自分の価値をおく考え方が染み付いてしまった。

このような能力評価的な生き方では息が詰まる。

 

童心に帰って、学習し成長できることそのものに自分の価値を見出せるようになりたい。

(この一連の発想は、キャロウドゥエックの著書「マインドセット〜やればできるの研究」を読んだことによるものと思う。他人との比較をして落ち込むことが多い方がいれば、読むことを強くお勧めする。)