ロックスターは27歳で死ぬらしい
27歳で死なば、ロックスターではない
さて、早く死ぬというのはなにか
英雄的な魅力があるようで
「太く短くがいいじゃんか」と口ぶいて
勝手振る舞うを良しとする人もいた
かくいう僕も
ロックスター、とか、抽象的で掴みどころのない言い訳を拠り所にして
意味も薄弱にしてさもなにかを含んでいるような容子を着飾り、カッコつけたりしたもので(あるいは今でもってして、その延長線上にある)、
なんと情けのないことか、と落ち込む。
立派に生きるだの、
本当のことだとか、
今を生きるだとか!
綺麗な言葉でごまかすのも同じことだが
結局27歳で死ぬ、などは、鼻垂れの常套句でしかなく、多くは残念ながら、虚しさを引きずって歳を食うばかりである
「自分を凡人だと受け入れたら、気が楽になった」
「凡人でいいじゃない。普通が1番幸せだよ」
とかいって。
いや、確かにその通りだけども、
もう少し、間の抜けていた自分と押し問答しておきたい。
最初の頃は、単なるミーハーであっても
行いから思考が生まれ、嘘から出たまこと、本質に気づくこともある
英雄に憧れることは確かに滑稽だが
空虚さに気づかず英雄の真似事に興じたことから、英雄とはなんぞやということに、気づくかもしれない。
早熟にして濃く生きたのち、
早くして死ぬ人が英雄視されるのはなぜか。
また、英雄とはなにか。
時代背景や社会環境などから、論理的な解釈はいくらだってできるだろうし、実際に頭の良い人たちがたくさん述べてきているだろうから、それはそん人らに任せるとして、
ロックンローラーでありたい、などと恥ずかしげもなく主張してきた僕は僕として、この問いに向かいあっておきたい。
英雄とは「世の中の普通」から大きく外れた上で、価値が認められたものが得られる評価である。
つまり、
・「世の中の普通」から外れること
・価値が認められること
の2つが英雄の条件である。
早く死ぬことは「世の中の普通」から外れることだが、価値が認められるかどうかは早く死ぬこととは別の議論になる。
だから、
「早熟にして濃く生きたのち、
早くして死ぬ人が英雄視されるのはなぜか。」
という問いの答えは、
“濃く生きて早く死ぬ”ことで、“条件1「世の中の普通」から外れる”を満たし、
生きている間に為したことが“条件2 価値を認められる”を満たしたから、になる。
普通に働いて、普通に生きる。
その平凡さには大きな価値が認められるわけだけど、一般的に考えられている「世の中の普通」という基準からは、外れていないので、英雄にはなれない。
実際は、平凡だと言われる行いをすることこそ、「世の中の普通」の真の実態からは外れているので、(「世の中の普通」なんて概念は曖昧で、大抵「井の中の普通」でしかない)
そう考えると、潜在している英雄は少なからずいる。あんまり多くの人たちと付き合いがないので本当のところは、わからんけど。
太く短く生きる、ロックンローラーになる、とかいう言葉の嘘くささ、中身のなさは
「世の中の普通」から外れることに英雄的価値があると勘違いしていることに起因するのではないか。
世の中の普通から外れれば英雄になれると思ってロックンローラーぶったとしても、独善的な価値しかない。誰にも認めてもらえない。
価値が認められなければ英雄にはなれないのだ。英雄には、他人の中にいる自分しかなれない。(独善的英雄になら、なれているかもしれないが)
ロックンローラーぶることが「世の中の普通」から外れるための安易な手段になっていることもあると思う。結果、それでは外れない。発想が「世の中の普通」的だから。
結局、英雄になりたい、なんてのは下らないということだ。
世の中の普通から外れることが目的になってしまっては、結果的に「世の中の普通」的発想に帰結するし
価値が認められるかどうかなんて、時勢によって変わるものだから。
まして、早く死ぬことで英雄視されるなんて悲劇でしかない。
ポックリ死んじまって、世の中の普通から外れた途端に、よく知らん人たちからある事ないこと言われて、英雄だのなんだの、鬱陶しさしかないじゃないか。まあ、死んでりゃ、わけないか。
とにかく、
27歳で死ぬな。生きてください。
僕も、なるべく生きていようと思う。