思索記

ものを考える。詩。

6月は水無月というらしい

僕の職場の壁にはカレンダーがあって、そこには日本語で月の名前が書かれている。日本語のそれは和風月名と呼ぶらしい。今月は水無月と書かれている。梅雨の時期なのに、どうして水の無い月と呼ぶのか不思議に思った。だから、現代人よろしく簡単に調べられる手のひらサイズのパソコンでグーグルした。梅雨の時期である6月を水無月と呼ぶその理由は、暦の違いにあった。和風月名は旧暦の時代に使われていた呼び名で、現在の暦とは少しズレがある。水無月は現在の暦で、7月にあたるとのことだった。梅雨が明けて夏が来る月だから、水無月と呼ばれるようになった。僕の職場の毎月ちぎられるカレンダーには、和風月名が載っている。僕はそのことが密かに楽しみで、いつもチラチラと気にしている。和風月名の響きや、漢字の感じが好きだ。先月は皐月(さつき)だった。となりのトトロを見たことがあれば、メイとサツキで聴き馴染みがあると思う。すごくいい名前だ。日本語には、日本語の美しさがあって、きっとそれは時代と共に失われつつある何かしらの、その一つなんだと思う。和服を着なくなったこととか。別にそれがどうのって言うわけじゃないんだけれど、和風月名にワクワクする僕の心は、日本人の血によるものなのかもしれない。アメリカ人も、月の名前にワクワクしたりするんだろか。今月はMayだぜ?Mayってナンカイイヨナ!って思ったりするんだろうか。それにしたって、当時の日本人が水無月ってナンカイイヨナって思っていたとも考えにくい。物珍しさを感じているだけなのかもしれない。 6月と水無月のズレについて書きたかった。水無月の由来を調べた時、それは何かを思い立ったり感じたりして、「コレだ」と決めたことが、時間が経ってズレてしまうことと重なった。そもそもこの世界自体が、そういう作りになっているのかもしれない。換気扇を眺めているのが心地よかった。それは、クルクルと回り続けていて、二度と同じでは無い風が通り続けているからだった。ぐるぐると繰り返していることと、二度と同じで無いことが共存していて美しいな、と感じる。正解があると思っている。そのことを指摘されたことがある。6月が水無月なのは変だろ、不正解だろ、と思ったから調べたのだ。当時は正解だった。そんなもんなんだと思う。ぐるぐるして、二度と同じではなくて、正解だったり不正解だったりどちらでもなかったりする。6月は、水無月というらしい。それでいいのだと思った。

サツキも中盤!JPに泣いた若輩のバカ

やらなければならないことを先に伸ばして三千里、思えば遠くきたもんだ、腹をすかして飯を食らって、ソファをめがけて背面ジャンプ。人生を四半世紀生き伸ばしても、曲線は緩やかに下降していくだけなのかもしれない、そう自らを悲劇に語るおっさんに片足突っ込んだ青二才は、リモコンの「電源」ボタンをヌグッと押した。志村さんのモノマネをしている人、松本人志のモノマネをしている人が映り、「まもなく!(CMのあと?)」のコマーシャルが点滅した。JPとマドンナが20年ぶりの再会!の宣伝文句につられて、僕は依然ソファに横たわることを決めた。 JPのモノマネも、志村さんのモノマネも、「好き」の積み重ねとその出力で、芸で、ライブだ、と思った。マドンナ!が観たい、それまで粘るぞ、と首を傾けていた。いよいよもってして(それまで取り分けて大きな盛り上がりはなかったが)、マドンナが登場した。「聴きたいこと」が先にあって、それを聴くべきベストなタイミングくるまでの微妙な時間、そわそわとする時間に思い出話がちらりと、マドンナは左上に目を動かし、思い出をはなし、しゃべくりメンバーはそれにテクニックでリアクションを返す、後ろには「聴きたいこと」をいつ聴くべきか虎視眈々のハンターの目、いよいよその時がやってきて、ホリケンが放つクエスチョン! 「今はその、、お幸せなんですか?」 回答までは2秒と無かったが、そこにいる複数の人間の回答への注目が濃厚で、特殊相対性理論か!?、時間が突然ゆっくりと流れた。マドンナは「はい」と答え、「結婚6年目で、子供も2人います」と続けた。

その後の瞬発、JPの反応の素敵さに、僕は心を打たれてしまったのである。 「それはもう、良かったです、おめでたい(なんか違ったけどそんな感じ)」と言うJPの人相が、今の僕に足りないものをギュッと詰め込んでいるようで(ナルシズムの表徴、投影による昇華か!?の心の声、うるさい!)、少しうるっときさえした。

ふいに突き刺さるもの、穴の空いたポケットに入れて今日も明日も行こうと思いました。エンド。

音が起こること

ライブをした。生活が全て出る。また、しょうもない歌も、歌っちまった。しょうもない人生、生きてるカラダ。ライブ中、チューニングはおかしくなってしまった、アンプに繋いだ電気信号が途切れてしまった、けれど、音が起こることはすなわち、自然の中にあるべきだった、僕はその自然であるはずなのに、社会のゴミを食ってはいて、煩悩に塗れ、ている、しかし、音が起こることは自然、リズムを止めてはいけない、故意に、恋してはいけない、AIに出せない揺らぎ、僕の話、僕の音、に一歩でも近づくためには!捨てるべきもの、思い起こすもの、それとひとつまみのファンタジー(シネ!藤本たつき!大好きだ!)、「エンタテェイメントッ」が決め台詞の芸人、正解を叫んでも振り向かないピーポー!に、救急車は駆けつけない。ピーポー、ピーポー。ドップラしょ、よっこいしょ、ニシンきたかとカモメに問えば、私はいつまでも宇宙の真ん中に辿り着けない音楽を、人生を送るわけにはいかないと言う決意、太宰治の奏でるソナタにAIは永遠に追いつけない。さよならの季節だ!雪溶けは近い。GOOD BYE!バイバイ。

遠征記 - TOONICE編 3

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遠征記 TOONICE編 1 はこちら

https://syotaro-nakahara-gg.hatenablog.com/entry/2023/03/14/023545

 

遠征記 TOONICE編 2はこちら

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 バスに乗っても引き続き「サラバ!」を読んでいた。同時に、高松空港で「さ ぬ き」を見た時と同じように、頭の中で歩の姉のセリフを反響させながら、窓の外の景色を見ることもやめなかった。空港から瓦町への道中、バスから見える景色は北海道とは全く異なり、そうと比べれば、名古屋(というより愛知岐阜あたり)の方が瓦屋根の家が見られる点では近しいように思ったが、それでもまた、それらとも違うように見えた。京都のように、空が広く見えた。背の低い建物が多く、間隔も広かった。所々、石垣があったことが特徴的だった。北海道にも石垣はあるんだろうか?感覚としては、かなり珍しいものを見られた気分だった。石垣は、綺麗だった。香川はどこの藩になるんだろう、自然に興味を持てた、が、調べていない。僕は浅いのだった。途中、イオンの様なショッピング施設が目に入ってきた。イオンと同じ色の組み合わせで、キツめの濃いピンクに、白の文字で、「you me」と書かれた看板だった。僕の中で「JET★」に対する気持ちと同じ気持ちが沸き起こった。ネーミングの安直さ、僕は、アホらしいものが好きだった。親父ギャグや駄洒落を言われると、我1番と吹き出してしまう。愛すべきジェットスター、you me、あっぱれ地元の愛すべきオジサン、親父ギャグ、だ。「you me」を過ぎると、徐々に街が栄えている景色に入っていった。そうとすると、瓦町に到着した。

 

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バスを降りると、右手に駅が見えており、バスが停まったのは駅前のロータリーで、降りた時に向いていた方向にそのまま歩いて行ったが、行き止まり(信号のない道路、ロータリーの間?つきあたり?)になった。向こう側へ渡れないか様子を見ていたが、それなりの交通量があり、難しかった。僕は諦めて正規ルートにもどり、駅前に到着した。とてもいい天気だった、空気の違いは、アンプのツマミを思わせる。札幌の寒さは、Highフルテン、Mid11時、Low9時と言った感じ。高松の空気は、札幌はもちろん、名古屋とも違っていた。High9時、Mid15時、Low10:30な感じ。南国を感じる(南国を知らないが、しかし南国だった)、トゲのない、色のつかない霧状の暖風が彷徨っているような(確かにそこにあるが、透けていて、視覚的には何もないのに、どこか質量を感じる)空気だった。この気候は、とても好きだ、と思った。生まれてから、人生史上最も西側に到達したことを実感した瞬間だった。街の空気は、大抵、その街を気にいるかを分からせてくれる。僕は高松が好きだ、と思った。

 

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今回の遠征は、僕が全く馬鹿で高知行きの往復飛行機を間違って買ったばかりに、金に余裕がなかった。だから、相棒のヤイリギターを泣く泣く札幌に置き去りにし(「JET★」に預けるのは怖い、2座席買うお金がない!)、TOONICEにてお借りする運びだった(実はこれだって、「行くと決めたらいく」のと同じように、「歌うなら自分のギターさ」という熱量があれば借金でもなんでもして持っていくことは可能だった。僕は、「相棒」と言った割に、ギターへのこだわりはないのだった。もちろん、今使っているヤイリグイターは大変気に入っている。小さいボディの割に大きくなってくれるあの音が大好きだ、同時に、どんなギターでもいいライブをできる自信もあった、鼻垂れである)。弦を交換した方がいいとのことで、弦を持参する約束だったので、TOONICEの近くに楽器店があれば、着いてから買って行こうと思っていた。瓦町には、音楽関係のお店が結構あった、もちろん楽器屋もあり、駅から店に向かった。駅前の信号を渡り、まっすぐに進み左に入ると商店街があり、楽器店はそこにあった。Googleの写真では、小さめのお店に見えたが、存外広い店内だった。「自分の信じるものを探しなさい」と歩の姉に言われたことを考えていて、店内にかかっているR&Bらしき音楽に、自然と「好意」を感じたため、もしやこれは自分の信じるものに続いているのではないか、そうだろう!と、弦を手に取り、会計する段になって「この曲は、誰の曲ですか」と店主らしきオジサマに話かけた。楽器店でかかっている曲について話をする、漫画にもある憧れのシーンだ。やっぱり僕は“そう言う”人間なのだった。そして、オジサマは「ハッ」と失笑し、少し間を開けて僕を見つめると、「何の曲って...USENだよ」と言うのだった。なんて、恥ずかしい瞬間だろうか........心臓がキュッっとなった。恥は、掻き捨て、、、、大丈夫、、、本当にいい曲だったのだから、、、。恥に固まりながら会計をすませ、店を後にした。楽器店の入り口には「SANUKI ROCK」というフェスのポスターが貼られていた。瓦町は音楽が活発な街なのかもしれない、と思いながらきた道を戻ると、商店街の出口の壁(店?)にクロマニヨンズのアルバムポスターが貼ってあり、ヒロト!!!と思うと、いよいよ僕は瓦町を気に入っていた、もう先ほどの恥を忘れていた。僕は単純だった。

 

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商店街を出て駅前の通りに戻り、3、4ブロックほど進むと大きな交差点の手前にTOONICEはあった。地下ではないけれど、2m(?)ほど階段を下り、機材の運搬がしやすそうな広さの入り口を抜けると、ポスターがたくさん貼ってある店内に受付がすぐに目に入り、受付を抜けると右に細長い廊下、突き当たり手前、右にステージの広間への扉がある。呼んでくれたKさんに挨拶して、それからすれ違う出演者にそれとなく挨拶をして、手持ち無沙汰になり、ひとまず入り口に戻ってタバコを吸った(中では吸えない!時代はタバコに厳しい)。開場までまだ少し時間があったから、お酒を買い(とても安かった‼︎驚きの親切価格に感動した)、ライブハウスの周りを歩いてみることにした。TOONICEを出て左に曲がると、大きな交差点があり、交差点の向こうには大きそうな公園らしき場所がみえた。吸い寄せられる様に公園に赴くと、何がしか誰がしかの銅像(記念碑?)があり、その足元にたくさんの金魚が泳ぐ小さな人工池があった。公園は緑が目につく風で、タバコの吸い殻やお酒の空き缶はもちろん、ゴミの様なものは見当たらず、治安がいいか、それかよく手入れされているようだった。たくさんの金魚が懸命に忙しなく泳いでいる様子を、はたと眺めている間に、歩の姉のセリフ、楽器店での恥ずかしかった自分、「さ ぬ き」の自分を脳みそが駆け巡り、そして心のチューニングが整った。金魚がいなければ、憂鬱を引きずってしまっていただろう、「見てろよ、金魚、このやろう!」と心の中で感謝の辞を述べ、僕は会場へ戻った。

 

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この日のトップバッターは「ラムネズ」で、彼らは高松のバンドだった。熱量とテクニックのバランスが絶妙で、本人たちが楽しんでいる(あるいは、心酔する)演奏でありながら、聴いている人がいるという視点を失わないプレイング、幅広い音楽を丁寧に、器用に、それでいながら「アツさ」も感じさせるドラムに、ただ合わせているのではなく、本人のグルーヴを他のパートを邪魔しないバランスで入れ込みながら寄り添うベース、彼らへの信頼があるのだろう、自分のペースを崩さずに歌い上げるレスポールスペシャルを鳴らす(「掻き鳴らす」のではなく「鳴らす」)ボーカル、そして大本命、高松のマーシーテレキャスターで生み出すロックンロールギター!ラムネズの最後から二曲目は、僕のルーツが共振した曲で、ジャパニーズパンクロックだと思った、ギターのプレイングが、弾き方が、マーシーの生写しのようで(本当にそっくりだった!あとできくと、あれはまさにマーシーをコピーしたものだった、嬉しかった)僕はゲラゲラと笑いながらライブを見ていた、高松にはマーシーがいる。あっという間に僕の出番になった。金魚のおかげで心のチューニングが整っていた僕は、初めまして高松、の気持ちで歌うつもりが、ラムネズのマーシーに感情が昂り、もはや「ぼく!パンクロックが好きだー!」の気持ちでいっぱいだった、それだった。もはや僕が歌わなくても、30分延々と「パンクロック」を流していればよかったくらいだった(言い過ぎだ)。あとになって、ラムネズのマーシーに「ロックンロールがやりたいんだな、って伝わるよ」と言われて、頭の中で「パンクロック」を流していた僕としては「伝わってる!」との思いで嬉しかったし、ラムネズのベースが「乾杯したくなりました」とお酒を奢ってくれたし、これはもう大成功だった(北海道弁でいうところの、「おだっている」状態だった、ライブは酷かったのかもしれない...不安になる、あはは)。3番目は「Sniff」で、From名古屋の遠征組だった。ジャンルはわからないけれど、ファンク?ブルース?、これまでの偉大なミュージシャンたちの系譜を受け継ぎ、愛しているのがわかるサウンドだった(たぶん!音楽を聴かない僕にはわからない世界、ぐぬぬ)。前提として皆んな楽器が「巧く」て、音作りから曲、演奏に至るまで、「しっかり」「音楽」だった、酒をのんで体を揺らせるグッドバンドだった、きっと僕がラムネズのマーシープレイに感動したように、ブルースやファンクが好きな人がみればアガるようなフレーズやプレイがあったのだろう、僕には気づけなかったけれど、絶対に。もったいない!わかる様になって聴きに行きたい。4番手には「How to draw A castle」という、From高知のバンドが演奏をした。その頃には僕は大分酔っ払っていた。出身がしもてからイギリス、日本、アメリカの3人のサックス、ドラム、ギターボーカルの3ピースバンドで、アーティスト写真がツボで、サックスが赤んぼうに見立てられ抱かれていた、家族写真をモチーフにした写真だったのだけれど、写真でサックスを持っていたのはドラムというレトリック、(勝手に)やられた。サックスは写真で学ランを着ていた人だった。サックスはアルトかテナーだったようだけれど、バリトンサックスかと思うほど野太さを感じさせる音で、酔っ払いながら、「すげぇ〜、、」と思って聴いていた、あとになって、ドラムの人と話していて、そう思ったことを伝えると、「直接言ってあげたら喜ぶと思う、彼は何か吹き口)マウスピース?)を色々工夫しているみたいだから」と言っていた。英語の歌詞だったから、何を歌っているのかはよくわからなかった、英語の勉強を何度も挫折している。さっきのスニフもそうだけど、やっぱりいろんなことに興味を持って、知っておくと楽しめるものというのは、たくさんあるんだろ、けれどそれは自分で決めて自分で興味を持たなければいけない、、、サラバ、、歩、、、、。最後のバンドは「象の背」で、From京都の3ピースバンドだった、京都といえば僕は京都にはいい思い出があって、好きな人がいる、京都の天才詩人だ。彼と一緒に宝ヶ池をぐるりと歩き、「法」の字の上に立ったことは死ぬまで思い出となるだろう。そんなわけもあって、京都=無条件で僕は愛してしまうのだった(書いているうちに差別、偏見がすぎると思った。よくない。僕だって「北海道の人なんだ!好き!」って言われたら非常に不愉快だ、なんだそれ。テキトーなこと言うのやめよう、、)。ともあれ、全バンドの演奏が終わり、イベントの終わりを迎えた、一旦の幕引き。総じて僕は相変わらずの己の“イタさ”を痛感し、音楽でととのい、結局は楽しかった。遠征の良さだ、恥も掻き捨て、また高知に行きたい。

 

*

 

ライブの後は、深夜までやっているカレーうどんの店に連れて行ってもらった。TOONICEから10分ほど歩いたところのお店で、カウンターが10席くらい、4-5人かけのテーブルが5つくらい。奥に細い縦長の店内だった(2階もあったのか?)。Sniffも、高松に来る道中でうどんを食べたとライブ中に言っていた。そのお店の方が有名らしく、観光客駆け込む繁盛店らしいが、車で少しかかる場所にあるとのことだった。連れて行ってもらったお店が香川県民たちの中でどどういう位置のお店かはわからなかったが、普段手打ちのうどんを食べること自体もないので、高松だから、美味しく感じたのかはなんともいえないが、麺にコシがあり、たしかに美味しかった(しかも、ご馳走になってしまった!ああ!LOVE高知!!)。そうこうして、ああこうして、翌日僕は札幌へ帰り、僕の高知遠征が終了したのだった(なんと空港までも送ってもらってしまった、ああLOVE高知!!)。

 

FIN

遠征記 - TOONICE編 2

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僕の上着にはペットボトルも入るくらいに大きなポケットが、左右に携えられている。少し重たくなるけれど、文庫本2冊くらいは容易に入る大きさだった。頑張れば左右で6冊は“イけ”る(英語圏ジェスチャーで。ピョコピョコと“イけ”る)。いく必要はないが、いける。やってみたい。2冊の文庫本をしまい入れ、僕は書店を後にした。ポケットに入るだけの荷物で生きていきたい。マスクも、時計も、アクセサリーも、鞄もいらない。できれば煩悩や苦悩も瞬間ごとに流れ出ていってほしいが、難しい。憂鬱はくたびれたガムみたいに、吐き出せる場所が見つかるまで、いつまでも居座り続けるからだ。ところでその時間、羽田空港には若い人が多かった。街には高齢者が溢れているが、他所の街へ溢れ出ては行かないからかもしれない。今では3人に1人どころか、2人に1人は高齢者のように見える街の風景に馴染んでいる。僕は、人工分布の中途半端なところにいるんじゃないだろうか。子供は社会にとって宝物では無くなってしまったような、令和。悲しい。保安検査場に向かった。

 

*

 

保安検査場に向かうと、新千歳空港とは違った入場の手順だった。新千歳では、体温測定器をクリアし、検査の必要な荷物や上着、携帯や鍵などポケットの中のものをカゴに入れ、それから航空券を見せて、金属探知ゲートをくぐった。羽田空港では、体温測定器の後、まずゲートがある。ゲートには航空券を読み取るカメラが付いていて、チケットやスマートフォンに印字されたバーコード、QRコードを読み取らせることで通過できる。その後、列に並び(この列が長くなると、警備員が一時的にゲートを封鎖する。「ピッ」と通ろうとする乗客に対して、「少し待ってください。」だって。デジタルとアナログの過渡期の特有な風景だ。いずれ、僕らが学生の頃、教科書で「ほーん」と眺めていた「三種の神器にむらがる昭和の人々」のように、「デジタル化が急速に進み、市井の人々と機械が共に働いていた時代」の風景として、教科書に載ることだろう)、荷物をカゴに入れる。利用者の総数の違いで、手順も異なっているのだろう、確かに、新千歳でこんな風だとかえって面倒に感じる気がする。空港も生き物と同じように、環境によって適者生存的な進化を遂げるのだから、面白い。羽田的進化と名付ける。僕も人気者になって、ライブでは羽田的進化をした入場規制を行いたい(“ジョーク”である)。今回は、乗り継ぎ便も含めて全てジェットスター航空だった。ジェットスターの「JET★」マークを見ていると、僕はなんだかアホらしい気持ちになる。ジェットのスターという安直なネーミングは、遙か上空ウン千メートルに放り出される僕の安全を守ってくれるのだろうか?と不安にさせる。直訳、ジェット機星。ウソップの攻撃にありそう、爆発しないでくれ。。。

邦題を付けるなら「英雄(ヒーロー)〜噴流の星〜」。少し安心できる。できないか。僕は熱しやすく、くだらないのだった。飛行機では、今回の遠征の第一ハイライトに出会うことができた。それは、素晴らしい客室乗務員の姿だった。僕は前から3番目の通路側の座席に座っていた。1つ前の座席に座っていた恐らく若い男性に、通路を抜けようとした40代、もしかしたら50代前後の客室乗務員の足がぶつかった。彼女はすぐにしゃがみ、お客様を向いて「大変申し訳ございません」と謝罪をした。若い男性の表情が芳しく無かったのだろうか、あろうことか彼女は続けて、「もう、この足が太いから!」と太ももをパシパシとはたき「本当に申し訳ございません!」と言ってのけた。そのエンターテイメント性たるや!僕も含め、周りの人たちが途端、和んでしまった。そうとすると、僕は彼女をみていたくなった。彼女のお客様へ向ける笑顔は、業務として必要だから行われる、といった味気ないものではなく、全く本当に「笑顔」だった。「笑顔」には種類があって、侮蔑や憐れみ、嘲笑の意が含まれるものや、筋肉だけを動かしている計算された作り笑い、媚びる笑い、強制する笑い、誤魔化す笑い、どれも、子供が1人で、キャッキャと笑うような純粋なものではない、つまり、原始的、動物的な笑顔にくらべると、純度が低い、或いは複雑な、とも言えるものになる。彼女の笑顔は純度の高いそれだった。そのような、心からの笑顔ほど、エンターテイメントになるものはない。あくまでも「自分が」おかしくて、あるいは楽しく、あるいは陽気だから、生まれるものでしかないのに、結果として周囲を和ませる、他者貢献的な笑顔。それとなくみていると、彼女だけでなく客室乗務員のチーム皆がイキイキとしている風だった。客室乗務員の組織体系はわからないが、件の彼女が当歳でいえば恐らく1番上だろうとみえた。彼女が中心となって、この“快適な空の旅”空間を作り上げる、いいチームが出来上がっているのだろう。「この太い足が!」だ。自虐でありながら、そこに卑屈さは全くない、そのバランスは簡単にできることではない。話が前後してしまうけれど、西加奈子の「サラバ!」の中で好きだった文章に以下のようなやり取りがある(記憶を辿った引用のため、正確なものではない)。

 

「歩は、ヨガってしたことある?」

「ヨガには、沢山の複雑なカタチがあるけれど、どれも身体の幹がしっかりとしていないとできないの。」

「歩は、揺れているように見えるわ。」

「自分の信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」

 

きっとこの客室乗務員は、太い「幹」を持っている。朗らかさや、ユーモアや、すべてエンターテイメントは、この「幹」がなければいけないのだと思う。彼女のエンターテイメントのおかげで、より一層、ライブへの気持ちが高まるのだった。僕は、ホクホクとした気持ちで、読書を開始した。

 

*

 

高松空港に飛行機がついた。飛行機から空港への接続通路を渡り階段を降りると、右に曲がる通路に続いていた。通過には縦2m、横3mほど(記憶なので正確ではない)の、大きな窓が付いており、窓からは背の低い山が見えた。山(丘?)には、京都の大文字焼きのように、石造りの大きな字で「さ ぬ き」と書かれていた。何も感じなかった。その時僕はいつものように憂鬱に耽っていたからだ。飛行機で「サラバ!」で、先の下りを読んでから、僕は自分の「幹」について考えていた。何もなかった。サラバ!の主人公の歩は、暴虐の限りを尽くし周囲はおろか家族からも疎まれる姉の姿を見て育った。だから、と主張されていたが、歩はいつも周りを怒らせないように、迷惑をかけないように、主張をもたず、自分の「安全」を脅かされないでいるには、どうすれば良いかだけを考えて行動していた。30代になるまで、歩はそれで万事うまくいっていたが、「禿げ」てから人生が急激に転落する。転落してから、ようやく自分が「危うい」生き方をしていたことと向き合うことになる。小説の読み方は様々あると思うけれど、僕は自己投影をすることが多い。自分のことしか考えていないからだと思う。歩の安全圏から出ない生き方には、大きく共感するところがあった。例えば僕は、名古屋に3年と半年ほど暮らしていた。北海道へ帰った後、一度ライブの企画をし、名古屋へ歌いに行ったことがあった。名古屋で仲良くしてくれていたバンドと、京都でかっこいいと思ったバンド、それから札幌で僕が好きなラッパーに集まってもたった企画だった。例によって、終演後居酒屋へ向かう段になったとき、お店の場所がわからなかった。その店は、その街のバンドマンや働いている人にとってはよく名の通っているものらしかった。僕がわかっていないこと、そのことが知れた時、恐らく何の気も無い言葉だと思うけれど、「ここ(この街)で働いていた人間とは思えないな」と言われた。今でも時々思い出してしまうくらい、僕の「浅さ」を突き刺した言葉だった。高松空港を降りた時、僕はその言葉を思い出していた。あの店やあの場所、あの音楽やあの小説、映画、スポーツ、文化的なエトセトラ、ゲーム、対象はなんでも、「幹」のある人間には語ることのできる「好きなもの」がある。僕にはそれがない、何をしても楽しいけれど、それは「楽しめる」のであって、「楽しくて仕方がないもの」ではなかった。もっというと、「楽しむそぶり」をしなければ、嫌われてしまうだろう、といった義務感や、「これを楽しめること」がステータスになり、「僕を見て!」の欲求が満たされるから、でしかないものが多かった。僕には、「ここ(この街)で働いていた人」に自然になれる人たちに、強い劣等感があった。初めて高松に行くことは、幹のある人に語らせれば、それは楽しい話を持って帰れる出来事だと思う。街の様子、売店で売っていた珍しいもの、車窓から見える景色、空港からみえる「さ ぬ き」の文字。空港の自動販売機の向かいには武士(?)のイラストの「フィッティングルーム」があったし(誰が何のために使うのか、全く見当がつかなかった)、横に長い入口には、都会のそれ比べるとあまりに緊張感のない、案内カウンターの受付嬢が仲良さげに談笑する姿があり、固いように見えて座ると柔らかい、丸くて不思議なデザインの椅子があったこと、とか。これらを僕は、「こういうことに興味を持ち、人に語れる人間」と「興味がない自分」を比較して、義務感から体験しに行っていた。サラバ!の「自分の信じるものを、他人に決めさせてはいけないわ。」という姉のセリフがそう強く自覚させた。「歩は、揺れているように見える。いつも周囲に迷惑ばかりかけている私を、あなたは疎ましく、惨めに思っていたかもしれない。けれど、私はどんなに傷つくことになっても、私の信じるものを信じていたわ。あなたは、あなたの信じるものを見つけなければならないのよ。」と、歩の姉のセリフが僕の頭にへばりつく。だから、本当は興味がないのに、「さ ぬ き」の文字を、そんな風で見ている自分がひどく嫌だった。自分がわからなくなる感覚だった。

 

*

 

TOONICEのある瓦町までは「ことでんバス」というリムジンバスに乗った(「ことでんバス」は、香川に行ったことがある、または地元の人間には“名の通った”ものであるだろうと思い、覚えていた。やっぱり、浅い、ださい!)。空港を出てバスの方へ向かうと、案内のオジサンが、「どこ?高松?」と聞いてきた。高松空港にいるのに、「高松?」と聞かれても、何を聞いているのかわからなかったから、「あ、はい」と曖昧な返事をしたら、「はい、じゃあそっちね」とバスに案内されてしまった。そのバスが瓦町に行くのかわからなかったので焦って、バスの前にいた運転手に改めて聞くはめになった。瓦町に着くバスでよかった。後になって、先ほどの「どこ?高松?」は、「JR高松駅方面のバスを探していますか」の意だとわかった。あまりに初見殺しだ。愛すべきオジサン、どこの町にもいる、僕もあんな風になるんだろうか。瓦町へ向かった。

 

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